(聞き手)
東日本大震災の発生当時の状況をお教えください。
(児嶋様)
震災当日の午後3時頃は仕事中でしたが、さまざまなサイトを見たりしていて、ずっと仕事が手につかない状況だったのを覚えています。テレビも24時間やっていたので、インターネットのテレビをつけっ放しにして見ておりました。
被害の状況も1日では全く分からなくて、何が起こったのだろうというのが印象でした。東北は、遠く離れており、被災した場所も何処か全く分からなかったイメージが強かったです。
(井上様)
太宰府市役所の一階の待合室のテレビの前には、皆が集まって見ているような状況でした。
私も現実感がないというか、もう映画の出来事みたいな光景がテレビに映し出されていたので、これを即座に信じる事が出来ないような状況でした。
(宮原様)
私も仕事中で、午後3時30分くらいでしたか、大変な事が起きているという情報が入りました。
すぐに議会に備えつけてあるテレビを見に行きました。
その時は、もうあぜんとするような状況でした。何と言ったらいいか分からないけれども大変な事が起きているという事で、テレビに向かって「はよう逃げな。逃げな。」と、自分達も声を上げたりしたような状況でした。本当にびっくりしたという状況でした。
(聞き手)
応援
派遣に至るまでの経緯を、一人ずつお話を聞かせていただければと思います。
(児嶋様)
応援
派遣の経緯ですが、多賀城市から技術職の
派遣の要請があり、まずは、先発隊が行き、その後、3カ月ごとに交代で行くという経緯がありました。
派遣は、上下水道部、建設部、総務部の3グループで回していきまして、順番が回ってきて上下水道部の私が行くという事になりました。
派遣は、2013年1月から3月までです。仕事内容は、下水道の災害査定に係る事務や、県・国に出す書類の変更書類を作成する作業でした。
(井上様)
私は、2011年5月に太宰府市から多賀城市への
派遣が決まり、仕事は事務全般でした。災害援護資金や弔慰金の住民受付で人手が足りないという事でしたので、当時直属の課長から指示がありました。
派遣は、5月17日から25日までの9日間で、多賀城市役所6階大会議室で総合受付や罹災手続きに必要な事を聞き取るなどの仕事をさせていただきました。
多賀城市までの経路については、当時は、まだ、仙台空港が閉鎖していましたので、新幹線で東京まで行き、そこから乗り継いで現地に入りました。多賀城市では、宿泊できる場所が無いという事で仙台市に宿泊をしました。仙台市でも、各地から震災復興に携わる人が大勢来ている様子で、8日間連泊できるホテルが無いという状況で、事前にコーディネートにあたった阿部課長に、何とか2ヶ所のホテルを押さえてもらい、ホテルを途中で変わりながら多賀城市に毎日通っていました。