防災・減災への指針 一人一話

2013年10月07日
応援自治体職員の声 ――太宰府市②――
太宰府市職員 上下水道部施設課施設係主事
児嶋 秀晃さん
太宰府市職員 健康福祉部福祉課福祉政策係係長
井上 智志さん
太宰府市職員 健康福祉部福祉課福祉政策係
宮原 仁さん

派遣の経緯と担当業務

(聞き手)
東日本大震災の発生当時の状況をお教えください。

(児嶋様)
 震災当日の午後3時頃は仕事中でしたが、さまざまなサイトを見たりしていて、ずっと仕事が手につかない状況だったのを覚えています。テレビも24時間やっていたので、インターネットのテレビをつけっ放しにして見ておりました。
被害の状況も1日では全く分からなくて、何が起こったのだろうというのが印象でした。東北は、遠く離れており、被災した場所も何処か全く分からなかったイメージが強かったです。

(井上様)
 太宰府市役所の一階の待合室のテレビの前には、皆が集まって見ているような状況でした。
私も現実感がないというか、もう映画の出来事みたいな光景がテレビに映し出されていたので、これを即座に信じる事が出来ないような状況でした。

(宮原様)
 私も仕事中で、午後3時30分くらいでしたか、大変な事が起きているという情報が入りました。
すぐに議会に備えつけてあるテレビを見に行きました。
その時は、もうあぜんとするような状況でした。何と言ったらいいか分からないけれども大変な事が起きているという事で、テレビに向かって「はよう逃げな。逃げな。」と、自分達も声を上げたりしたような状況でした。本当にびっくりしたという状況でした。

(聞き手)
 応援派遣に至るまでの経緯を、一人ずつお話を聞かせていただければと思います。

(児嶋様)
 応援派遣の経緯ですが、多賀城市から技術職の派遣の要請があり、まずは、先発隊が行き、その後、3カ月ごとに交代で行くという経緯がありました。
派遣は、上下水道部、建設部、総務部の3グループで回していきまして、順番が回ってきて上下水道部の私が行くという事になりました。派遣は、2013年1月から3月までです。仕事内容は、下水道の災害査定に係る事務や、県・国に出す書類の変更書類を作成する作業でした。

(井上様)
 私は、2011年5月に太宰府市から多賀城市への派遣が決まり、仕事は事務全般でした。災害援護資金や弔慰金の住民受付で人手が足りないという事でしたので、当時直属の課長から指示がありました。派遣は、5月17日から25日までの9日間で、多賀城市役所6階大会議室で総合受付や罹災手続きに必要な事を聞き取るなどの仕事をさせていただきました。
 多賀城市までの経路については、当時は、まだ、仙台空港が閉鎖していましたので、新幹線で東京まで行き、そこから乗り継いで現地に入りました。多賀城市では、宿泊できる場所が無いという事で仙台市に宿泊をしました。仙台市でも、各地から震災復興に携わる人が大勢来ている様子で、8日間連泊できるホテルが無いという状況で、事前にコーディネートにあたった阿部課長に、何とか2ヶ所のホテルを押さえてもらい、ホテルを途中で変わりながら多賀城市に毎日通っていました。

東日本大震災全体と多賀城市の2つの義援金箱

(聞き手)
 宮原様には、義援金箱の件も併せてお聞かせ頂ければと思います。

(宮原様)
 当時、私は福祉課長という立場にありました。
その時に、市民の方々から義援金などの問い合わせがかなりあり、早急な対応策が必要と感じました。災害発生当初は、市全体で支援するという形から、協働のまち推進課で募金関係・支援関係の窓口になっておりました。
私の所属する福祉課では、自治会、市民の方、町内の方々に向けて、募金箱の設置の通知やPRなどをさせていただきました。
 市役所の一階に義援金箱を置いたのですが、友好都市である多賀城市の義援金箱と東日本大震災の全体の義援金箱の2つを設置しました。
この2つの義援金箱設置については、2本立てで行こうと決定されました。各公共施設にも2つの義援金箱で対応するという事になりました。現在でも義援金箱は、市役所に設置しております。市役所以外にも公民館や図書館などの各公共施設の方にも置いており、合計で12カ所に設置しています.

(聞き手)
 震災当時は、原発で放射能などの問題がありました。多賀城市に来られる際は心配なさいましたか。

(井上様)
 放射能汚染や余震などのさまざまな情報が飛び交う中、正確な現地の情報が把握できない中での派遣でしたので、周囲の心配もあり、私自信も正直なところ、放射能が身体へ及ぼす影響に不安を感じながら、覚悟を決めて、多賀城市に行きました。

方言が分からずに苦労

(聞き手)
 現地に入られた時の状況と、派遣時に良かった点や悪かった点についてお聞かせください.

(児嶋様)
 私が行ったのは平成25年の1月で、震災から2年経とうとしていた時でした。飛行機が仙台に着いて海の方からターンして降りる時に、沿岸部の被災状況に唖然としました。
多賀城市に着いてからは、沿岸部を自転車で回ったりしているうちに、その状況や土地勘、空港までの距離感が分かってきて、ここまで被害があるのかと分かりました。
 派遣でうまくいかなかった点については、3カ月交代で行っていたことです。やはり災害の査定という事で、県や国に交渉に行かなくてはいけなかったので、まずは業務の把握をするのに時間が掛かったのと、私の知識不足で何かと分からない事が多かったので、やはり最初の2カ月間ずっと苦労しました。何とか、これで提出という形ができ、変更の書類を出して工事の清算までを終わらせてという形でした。かなり勉強になりました。
 方言については、少し苦労しました。地元の業者さん達は、何と言っているのか本当に分からなかったです。それと多賀城市の町内会長さんなどから要望を言われた際も、電話で対応するのですが、何と言っているのか、もう分からなくて困りました。それで多賀城市職員の方に、全然聞き取れなかったので付いて来てほしいと伝えて、一緒に行って解決してもらうという形で動いていました。

体験談によって被害状況を理解

(聞き手)
 井上様も、同じく飛行機で向かわれたのですか。

(井上様)
 私の時は、新幹線と在来線を乗り継いで、多賀城駅へ着きました。
多賀城駅の辺りは特に被害が無くて、多賀城市役所まで歩く道のりでもその印象は変わりませんでした。
私が支援業務にあたった時は、総合受付が始まって、まだ初期の段階だったと思います.
市外から通っていたということもありますが、朝早く仙台市を出て、業務が終わるとだいたい午後6時とか7時くらいになっていて、外はもう暗くなっているという状況でした。
当時は土曜、日曜も受付窓口を開けておりましたので、結局、明るい間に被災が大きかった海側の地域に行くことはできませんでした。
そういうわけで、被災状況を目の当たりに実感することがないままに市役所でひたすら事務をしていたという状況でした。
そのような中で、以前に交流職員として太宰府市に派遣されていた多賀城市職員の方々に、ご本人やその家族あるいは同僚が実際に被災されたときの話や間一髪で助かった話などを聞くことができました。
その時はじめて、テレビでみただけの想像を絶する、あたかもCGのような津波の凄さと実際の甚大な被害の状況が臨場感を持って結びつき、現実に起こったこととして感じることができるようになりました。 

職員の疲労の問題

(聞き手)
 他の自治体からの応援職員は、既に来られていましたか。

(井上様)
受付窓口には全国の自治体から職員の方々が応援に来られており、既に事務の流れが出来上がっていました。それを教えていただきながら徐々に慣れていくというような形で、他の自治体職員に助けられながら行っておりました。私達、太宰府市からの派遣は、1週間くらいでの交代でしたが、香川県職員などは2週間から3週間くらいの間隔で交替しており、疲労が溜まって、昼の食事の時にも疲れている様子でした。それとやはり多賀城市職員自体に、かなり疲労が溜まっているような状況でした。
私が派遣されている期間は、住民の方がひっきりなしにご相談に来られ、休みなしという感じでした。昼に交替でとる食事の15分くらいが唯一の休憩で、それが終わったらもう交代で、ずっと受付をするというような状況でした。
 言葉の問題は、私は特に分からないという事はありませんでした。
 気づいた点は、申請に来られている住民の方が。長時間の待ち時間にも関わらず。始終我慢強く待たれていたことでした。
東北の方は、我慢強いなという印象を持ちました。
うまくいかなかった点は、住民の方の要望に対して、適切な担当部署にご案内することができずに、市役所内を奔走したことがありました。
 多賀城市役所内部でもまだ整理ができていない段階のようでした。

(聞き手)
 派遣に際しての人選はどのように行われましたか.

(井上様)
 私の場合は、第1回目の応援は従事する業務の関連性から、福祉課の職員が適任であるということになりまして、その時の私は4月に国保年金課から異動してきたばかりでしたが「私が行きます」という事で決まりました。

現在も継続されている義援金受付

(聞き手)
 義援金受付業務について、良かった点、悪かった点について、教えてください。

(宮原様)
 寄付金や義援金については、市民のみなさんが前もって積極的に動いておられましたので、自治会長にお願いをした時にスムーズに話しが進み、寄付金や義援金が集まりました。
先日までに269団体の方々から義援金を受け付けさせていただきました。
現在も義援金の受付を継続しています。
お預かりした義援金は、多賀城市に数回にわけて送金させていただいています。
太宰府市自体も、震災後、すぐに議会に諮り、1,000万円の義援金をお送りさせていただきました。
今まで、多賀城市への義援金送付は、10回程度行っています。
1回目は、23年3月末で600万円ほどの義援金をいただきましたので、市長判断でお送りさせていただきました。
2回目が23年5月で700万円を寄付させていただきました。
2013年10月現在の累計で22,371,000円をお送りさせていただいています。
 太宰府市内のいくつかの団体が、何回も街頭や太宰府天満宮の参道など、さまざまな場所に立たれて、義援金の呼び掛けをされました。
269団体と言いましたが、この中には重複して支援していただいた団体もあります。
例えば、吹奏楽団などもチャリティという事で会場に募金箱を置いてくださり、何回も皆さんから義援金を募っておりました。
さまざまな方や団体から熱い心をいただき、多賀城市にもそれらの活動を、そのままお伝えさせていただきました。

震災を契機に高まった多賀城市の関心度・認知度

(聞き手)
市民の皆さんは、友好都市という事で多賀城市は意外に知っている地名なのでしょうか。

(児嶋様)
 太宰府市は、奈良市と多賀城市の2つの友好都市があります。
震災後に実施したアンケートでは、多賀城市の認知度は、太宰府市民の約4割が知っていると答えました。奈良市に関しては、十数パーセントという結果となりました。
やはり、震災を契機に、太宰府市民の多賀城市への関心度と認知度は高くなったと思います。

(聞き手)
 今回、多賀城市に応援派遣に行かれた経験が太宰府市の防災対策などに活かされた点についてお聞かせください。

(児嶋様)
 多賀城市に応援派遣に行って、全国から応援に来ていた他自治体の方や地元の方と何回も話す機会があり、震災当時の話を聞かせていただきました。
震災時には、携帯電話や電話も繋がらないし、無線も電池が無くなって、結局は「人と人との繋がりしかなかった」と教えていただきました。これを業務でも活かせるのではと思っています。業務指示を電話一本だけで済ませるのでは無く、面と向かって話し合って決めたりすることを実践しています。
 派遣された当時、多賀城市の下水道課の次長が、物凄くリーダーシップを発揮されていました。
「私が全部責任を取る」、「部下のために何でもする」、「下水道が復旧するまで退職しない」との熱い気持ちを持った自治体職員に役所人生の中で初めてお会いし、その衝撃は大きかったです。
多賀城市の職員は、一生懸命働いていて、もちろん仕事もバリバリ出来て、何も文句を言わずに、苦情処理の現場対応にも全部付いて来てくれました。
その対応を見たら、地元に帰った時には、私ももっとフットワークを軽くして何でも対応していかないといけないなと思い、日々業務に当たっています。

現在の課題は災害時要援護者の避難支援

(聞き手)
 震災以降、何か新しく取り組むようになったことはありますか。

(井上様)
 震災以降、太宰府市は、災害時の要援護者避難支援に取り組んでおります。これは全国的な取り組みではありますが、災害時にはインフラも絶たれますし、隣近所の日頃からの付き合いというのが大事だと感じたからです。自治会や、隣組などを中心に、昔あったような隣近所の付き合いを復活していただき、日頃からお互いの状況が分かって、何かあればすぐに声を掛けられるという助け合いの関係を作っていって頂きたいということで、災害時要援護者避難支援の取り組みを始めております。
 高齢者や障害者、外国人など、何かあった時にすぐ避難が出来ない方達に対し、近所の方に支援者になっていただき、何かあったらすぐに支援・避難の手助けをしていただく仕組みづくりをしようとしているところです。
有事の際には、例えば、支援者に登録された方が決められたエリアで避難の手助けをするというような事です。要援護者などの情報を共有して、何かあったら支援者が助けに行けるようなコーディネートをしたいと考えています。
 太宰府市でも少子高齢化が進んでおり、高齢化率は約24%です。これには地域差もあり、高齢化率が高いところと低いところがあります。若い方が中心となっている地区もありますが、昭和50年代には市内に山を切り開いた新興住宅地が数多くできました。このような地域は、団塊の世代が購入して団地が出来てきたという経緯があるので、現在高齢化が進んでいるという状況です。
 太宰府市で過去に起こった災害の大半は大雨による水害ですが、過去に被害があった地域は、危機意識が高く、逆に、平地で被害が今まで無かった地域は危機意識があまりないようです。東日本大震災以降でも、その意識にあまり変化はないようです。

(聞き手)
 義援金に関して、今後のお考えなどがあればお聞かせください。

(宮原様)
当初は、多額の義援金がありましたが、時が流れると共に、やはり少しずつ少なくなってきています。原因の一つとして、九州地区でも大分県や熊本県、福岡県などで豪雨災害が発生したことでした。
そのため、義援金疲れも、市民の方に少しあるのかなというのもあります。日赤も、まだ来年までは続けますという事で言ってありますし、市としても、やはり多賀城市を今後もずっと支援していくと認識していますので、どのようにしたら、義援金を増やしていけるか模索しているところです。

絆、人と人の繋がりの大切さ

(聞き手)
 多賀城市の今後の復旧・復興に向けて何かお考えはありますか。

(児嶋様)
 ちょうど私が行った時は、震災から2年経ったくらいでしたが、震災が起こったばかりの時の、を大事にしてという雰囲気がだいぶ薄れているという状況を聞きました。当初の、あの時のの感じを取り戻してもらって、少しずつ復興に進んでいってもらえればいいなと思います。

(宮原様)
 仮設住宅に住んでいる方々の思いを考えると、私達の義援金もあるでしょうが、国が率先してきちっと支援するべきだろうと思います。
仮設住宅の方、被災された方達に、今後も積極的に支援すべきではないかと思います。
 太宰府市の支援の一つとして、避難者の受け入れを行っております。県を通じて、市で受け入れるものは受けて、県は県で、住宅公社ですとかそういう空いているところを利用させていただくという事を進めています。
今のところは、多賀城市からではないですが、東北の方が太宰府市に避難されています。一日も早く、地元に帰れるような支援が必要だと思います。

最も重要なのは風化させないこと

(聞き手)
 東日本大震災を経験して後世に伝えたい事、教訓などを教えてください。

(児嶋様)
 先程言った事と重複しますが、やはり多賀城市の職員の方から言われた電気も携帯電話も無い中で、人と人との繋がりが重要だったという事は、後世に伝えていかなくてはいけないと思いました。
それを踏まえ、災害が起こる前からしっかり連絡を取る事、一人一人の関係を作っておく事が大事だなと思いました。
多賀城市、東北の復興については、派遣期間が3カ月と短い間でしたが、これからも少しずつ関わっていければとは思っています。今はそんなに急がずに、こつこつと少しずつ復興していければ良いなと個人的には思っています。

(井上様)
 今回の災害が想定外というような規模で起きたものではありますが、それでは「一体どこまで想定すればいいのか」、また、「防げるか」というところがあります。
震災後に「減災」という言葉が出てきており、少しでも災害の被害を減らすというように考え方も変わりつつあると思います。
いずれにしても事前の備えは重要と考えます。インフラなどのハード面の強化もありますが、人々の意識の中で風化させないようにする事が最も重要と考えます。
今回の震災では、先人の言い伝えを「教訓」として守っていれば、防ぐことができた被災のケースもあったように思います。
やはり記録に残すこと、そして、それらの記録を十分に活かし、人々に伝え、今後の災害に備えていかなければならないと思います。

(宮原様)
 東日本大震災は、これまでに無い未曾有の災害となりました。これは後世に伝え残すべきことであり、何かのかたちで残していくべきだろうと私は思います。
そして、今後の復興に関して、被災者の心のケアを一番心配しています。
被害を目の当たりにした子ども達に対し、メンタルケアができる方を派遣し、少しでもメンタルケアができれば良いなと思います。

(聞き手)
 貴重なお話を頂きましてありがとうございました。